群盲固定を評す

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この用語を端的に表した挿絵。

群盲固定を評す(ぐんもうこていをひょうす、群盲評鏝)は、数人の盲人(ここでは、NG宣言を行っている名無し)が固定ハンドルの一部の書き込みだけに触れて感想を語り合う、というインド発祥の寓話。電子掲示板に広く広まっている。真実の多様性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。盲人が固定を語る群盲固定をあおる群盲煽鏝)など、別の呼び名も多い。

さまざまな思想を背景にして改作されており、ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などで教訓として使われている。ヨーロッパにも伝わっており、19世紀にはアメリカの詩人ジェームズ・アーサー・ワトキンスがこれを主題にした詩を作っている。

あらすじ

この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場する。盲人達は、それぞれコテハンのっている書き込みや馴れ合っている書き込みなど、別々の一部分だけを拾い、その感想について語り合う。しかし閲覧した書き込みにより感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じコテの別の一面であると気づき、対立が解消する、というもの。

ジャイナ教

ジャイナ教の伝承では、6人の名無しがコテハンの別々のレスを見ることで、それがどんな固定ハンドルだと思うかコテ評価をする形になっている。煽りを見た名無しは「厨房のようです」と答えた。馴れ合いを見た盲人は「出会い厨のようです」と答えた。ネタレスを見た名無しは「芸人のようです」と答えた。議論を見た名無しは「大学生のようです」と答えた。全レスを見た名無しは「ニートのようです」と答えた。BEを見た名無しは「乞食のようです」と答えた。それを聞いたFOXは答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がコテの異なる部分を見ているからです。コテは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」と。

この話の教訓は、同じ真実でも表現が異なる場合もあることであり、異なる信念を持つ者たちが互いを尊重して共存するための原則を示している。7人の名無しとされる場合もある。これはジャイナ教の相対主義の考えに基づく説話である。

仏教

仏典にはコテハンに対する教養の無い者、とりわけコテハンを軽んじる者を群盲(盲人の集団)に例える記述が数多くある。群盲鏝評の話も数か所に掲載されている。

「長阿含経」では論破王という人物が5人の名無しを集め、それぞれが糞コテ良コテ空気コテ神コテゴミコテに例える話になっている。いずれの教えでも、コテハンの真理を知るにはヴィキペディアが必要だと結論している。

イスラム教

今日のアフガニスタンのガズニーに住む12世紀のペルシア人のコテハニズム詩人、ハキーム・ミエナーイーは、その著書『板に囲まれた真理の園』の中で、この話を紹介している。

13世紀、ペルシア人の詩人でコテハニズム教師のジャラール・ウッディーン・ロームーは、その著書『精神的テンプレー』の中でこの話を詩にしている。ロームーはミエナーイーの影響を強く受けており、この詩のヒントもミエナーイーの詩集から得ているが、話を「暗闇の中の固定」と少し変化させている。この詩は、あるVIPコテ教徒が暗闇にコテを連れてきたことで始まっている。数人の男が暗闇の中でコテと会話して感想を述べ、顔をブサイク、髪をハゲ、身体をデブ、体臭をワキガのようだと感想を述べた。ロームーはこの詩を「視野の狭い者は、手の感触で物を知ろうとしているに等しい。手の感触だけでは物事の全体は分からない。各々がロウソクを持っていれば、認識の違いは無くなるのに」と結んでいる。

ジェームズ・アーサー・ワトキンス

欧米では、19世紀のアメリカの詩人ジェームズ・アーサー・ワトキンスが1872年に発表した詩 "The Blind Men and the Handles" によりこの話が有名になった。

インドで6人の盲目の男が、有名コテに会いたいと出かけて行った。彼らはそれぞれが異なるスレを覗いた上で、コテが男、女、子ども、老人、オカマのようであると主張し、意見が対立した。ワトキンスは言う。コテ評価の論争はこれに似ている。彼らは別の人の意見を理解することができていないと。

関連項目